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安倍晴明の巻

安倍晴明の巻

最終更新時間:2005年11月15日 18時17分09秒

第1回目は安倍晴明に関する話題を取り上げます。

実は、一回目に晴明を取り上げることにしたのは、講演会のほんとうに直前になってからでした。ドラマ化などの話題が出すぎている時期に話をするのは私の好みではないので、最初は別の話題(西遊記)にしようかと考えていたのですが、そちらの方の資料が自分で納得できるところまでそろえられなかったので、これは2回目にすることにしました。

一回目に晴明を取り上げることにしたもう一つの理由は、講演会の少し前の2000年12月に諏訪春雄氏「安倍晴明伝説」(ちくま新書276)が出たことです。安倍晴明について話をするならば、はっきりさせておかないと全体の話が思うように組み立てられないという点がいくつかあったのですが、それらがこの本を読んだことで基本的にははっきりしました。このために、この講演のかなりの部分はこの本に依っていますし、全体の章立てもこの本に近いものとなっています。いちおう諏訪氏のもの以外の参考とした本は先に読んでいたものがほとんどで、歴史上の事実と伝説の区別をするとか、陰陽五行思想に関する説明などを入れるといった、この講演の基本的な方向はすでに考えていました。そういったところへあまりにもピッタリとハマった本が出たために、大きくそちらに引きずられてしまったところがあります。もう少し日を置いてから構成を考え直せば、もう少し違った形になったのかもしれませんが、講演の日は決まっておりましたし、この文章は基本的には講演に基づいたものですので、あまり話したことと違うものとなるのも良くないかと思いますので、事情を記しておいて大枠には変更は加えないことにしました。

ただし、当日の時間的制約や、準備期間の制約などのために十分に調べることができなかった部分については補足してあります。このため、全体の量としてはかなり増えました。また、話をする前につくったメモが元になっており、その後少しずつ補充しましたので、文体が必ずしも統一されていません。ご容赦を。

なお数は少ないですが、石田個人で考えてみたことは赤字にしておきました。理由などもその周辺に記してあります。歴史や民俗がご専門の方から見れば、取るに足らないものが多いとは思いますが、中にいくらかでも専門的に追究してみるとおもしろいことがあれば幸いです。 

 歴史上の安倍晴明

安倍晴明のように数々の伝説が伝えられている人物の場合、まず歴史上の事実と伝説とを区別する必要があります。そして、歴史上の事実であることを確認するためには、記載されている文献の信頼性を検討することが必要となってきます。たとえば、問題となっている歴史的事件が起こってから長い年月が経過してから後に書かれたものは、事件の当事者が歴史的事件からそう時間がたっていない間に書かれたものと比べて信頼性が落ちる可能性が高くなります。ただし、記録者が事件に関して、利害関係や個人的な主観などのために、事実ではないことが記録されている場合も有り得るので注意が必要となります。たとえば同じく数々の伝説、虚構が混じっている江戸時代の赤穂事件についての野口武彦氏「忠臣蔵」(ちくま新書014、1994年)の「多門伝八郎筆記」に関する部分などを読んでいると、当事者が書いているにも関わらず信頼ができないものがあることがわかります。

多門(おかど)伝八郎は、刃傷事件当日に当番になっていた目付で、組み止めていた梶川から浅野の身柄を預けられ、その後尋問にも立ち会い、切腹の時の検分もしている。その間の状況のメモを残しているのだが、たとえば、忠臣蔵の芝居等でも出てくる片岡源五右衛門が今生の別れのために訪ねてくるという話が入っている。ところが、他の資料から、切腹の場所になった田村邸は当日ピリピリ緊張しており、また何人も立ち入らせるべからずという厳命があったことがわかる。また、浅野家中は伝奏屋敷と藩邸からの立ち退きのために大騒ぎをしている時間帯であり、片岡も忙殺されていたはずである。さらに赤穂側の資料にこのようなことがまったく出てこない。などといったことがいくつかあり、この筆記にはおかしなところがいくつかある。実際に書かれた時期ははっきりしていないが、おそらくは討ち入り成功後、自分がいかに最初から赤穂側に肩入れしていたかを強調して、自己説話化してしまったものというのが野口氏の見解。

もちろん、時間を置いてから書かれたものがすべてまったく信用できないというわけではありませんが、注意深く調べてみる必要があるというわけです。たとえば武士の知行地の安堵状や軍忠状、土地の証文のたぐい、何かの役職の任命状など公式文書の一種(古文書と呼ばれている)が、信頼性の高い文書とされていて、従来から歴史の記述の基礎となってきました。日記などもこういった信頼性の高いものの一つです。

また、伝説にはその伝説を作っていった人々があり、伝説の内容はその人々の当時の状況、ひいては当時の日本の状況を反映しているわけで、こちらもさまざまな情報を含んでいます。ただ、やはり伝説は歴史的事実とは別のものとして考える必要があるわけで、伝説を歴史的事実と考えてしまったのでは見えるものも見えてこないということになります。

では、歴史上の安倍晴明はどのようになっているのでしょうか。

安倍晴明(あべのせいめい) 921〜1005(延喜21〜寛弘2):陰陽家・天文家。益材(ますき)の子。吉平の父。天文得業生から陰陽師を経て、天文博士、左京権太夫などに任じた。今昔物語集等によると賀茂忠行から陰陽道を学び、賀茂保憲から天文道を授けられたといい、占いや呪力を賞する説話が多数ある。後に安倍氏(のちの土御門氏)が陰陽・天文を家職とする基盤を築いた。

この生まれた年は、亡くなったときに85歳だったというところから逆算しただけなので、事実とは違っている可能性もあるでしょうが、他に資料はありません。とにかく、活躍をはじめたころにはすでにかなりの年齢になっていたことは確かなようです。系図および土御門家記録によれば、寛弘2年9月26日没。なお、晴明が生まれたことになっている延喜およびその次の天聖という年号の醍醐天皇の時代は、後に賢帝あるいは聖帝による理想の時代とされていて、さまざまなことがこの時代のことと仮託されています。晴明の場合にも、そのようなことをした可能性もあるかもしれません。ちなみに、後に南北朝の時に後醍醐天皇か自分の諡号を生前のうちから後醍醐に決めていたのは、自分が聖帝醍醐の後を継ぐんだという意気込みがあったからです。

安倍氏:晴明に始まる。阿部仲麻呂の同族のうちのある家を祖とするとする家系もあるが、疑問もある。とのことで、系図上では父の名前はあるが、それほど信頼できるものではなく、実際上晴明自身が歴史に名を残した最初。このため、出身地などもいくつかの説はあるが、結局のところはっきりしない。信頼できる資料で最初に出てくるのは960年(40歳)のとき。

この信頼できる資料での初出は、まだ天文生のときのことで、天皇の前に呼ばれて、焼失した節刀について言上しています。晴明は40歳になっていたのに、まだ天文を習っている学生(得業生)だったわけです。にもかかわらず天皇に呼ばれて答えているということは、すでにずいぶん知識が豊富だということが知られていたのでしょう。賀茂氏が力を持っていた当時の陰陽寮で晴明が出世することはむずかしかったのでしょう。しかし、晴明はずいぶん博識で有能であったため、学生という身分に関わらず、天皇に呼ばれるということになったのでしょう(諏訪氏前掲書)。

元々陰陽道は賀茂家の家学。晴明の出現によって、天文が安倍家、暦が賀茂家となった。貝原益軒は「保憲が自分の息子光栄(みつよし)への情にとらわれず、実力が必要なものを弟子の晴明に譲ったのは立派だった。」などと評しているそうですが、実は正当争いが起こっていたらしい。後に、信長以前に賀茂家は嫡流が絶え、安倍家が土御門家を号して暦も継ぎ、さらに後に賀茂家の庶流が幸徳井家を名のって、江戸時代には土御門家の配下にとどまった。(中山茂氏「日本の天文学」(岩波新書青G62、最近文庫化))。

貴族の日記などに残っている事績としては、

  • 何かふだんと違うことがあったときに、それに関して占う。病気など。占いの結果、治療方法を示すことも。お祓いのようなことをする場合も。
  • 儀式・建築・外出などの日時について占って決定。つまり吉日の決定。
  • さまざまな祭祀や儀式の実施、呪法の実行。

一つ問題かと思っていたのが「大鏡」の花山天皇退位事件のときの話です。花山天皇の突然の退位は花山天皇寵愛の女御(子どもができていた)の死去(腹中の子どもも)が直接のきっかけとされていますが、藤原氏の中での主導権争いとの関係もあり、大鏡の記述から藤原道兼が扇動したといわれています。保立道久氏「平安王朝」(岩波新書新赤)。

大鏡での記述のあらすじは以下のようになっています。

花山天皇が出家するつもりで内裏を出て寺へ向かう途中で晴明の家の前を通ったとき、晴明の声がして「帝が退位する天文の異変があったが、もう退位してしまったようだ。参内して上奏する。まずは式神一人内裏まで参れ。」。すると、目に見えないものが戸を開けて「ただいまこの家の前を通っていかれます。」と言う声が聞こえた。

この時の『天変』とはいったい何だったのかということで、たとえば斉藤国治氏は「星の古記録」(岩波新書黄207、1982年)などの著書で木星がてんびん座のα星に接近していたことをあげている。他にも、最近の大阪科学館友の会の月刊冊子「うちゅう」の作花一志氏の記事(京都天文めぐり・第三話陰陽師安倍晴明の見た星、2000年6月号p22-23)によればすばるの食を指摘している人もいて、作花氏としては「合わせ技」と考えるとのこと。しかし、

  • 大鏡は歴史物語であって、正式な記録ではない。史実と虚構の入り交じった文学作品とされている。成立も11世紀後半から12世紀前半とされていて、晴明の死後約100年は経過した時期であり、書いてあることが史実かどうかはそれぞれ部分でその内容を吟味して考える必要があろう。
  • その内容としては、目に見えない式神が登場しており、この話は虚構部分と考える方が良いことを示している。
  • また、史実にある晴明の占い結果はその後のかなりの幅を持った期間のうちに何かが起こると言っている(諏訪氏の著書にあげてある例によるので、すべてそうかどうかはご専門の方にご教示いただきたい)。上記大鏡の話では、直後かほぼ同時に起こったと言っているわけで、この点からも他の確実な史実とは違っている。おそらくは、史実ではないことを示していると思われる。
  • 『天変』の候補現象として複数の説が出るということは、つまり、すべての方が納得するような現象が見当たらないということで、このこと自体もこの『天変』が虚構であって、事実ではないことの傍証と思われる。

こういったことを考えると、晴明が『天変』を見たということ自体が虚構であって、対応する天文現象は特にないと考えるべきであろう、というのが、石田の意見です。おそらく最も初期の伝説の一つでしょう。花山天皇の退位事件は、この前後の最も大きな政治的事件ですので、晴明の伝説を広めた人々にとっては、ぜひ予言などをしてもらわなければマズかったのではないかとも思います。

大鏡: 11世紀後半から12世紀前半の成立。つまり、晴明の死後約100年後の成立。1025年に一人の聞き手に対して二人の人物が語り合うという形式で、摂関時代の開始から頂点までを描いている。天皇としては文徳から後一条まで、摂関では冬嗣から道長まで。

花山天皇:冷泉の弟円融の皇太子で、この前後の時期は一時両統が迭立していた時期にあたる。なお父冷泉天皇には精神的疾患があり、そのこともあってか冷泉(つまり花山)天皇の系統には結局皇位は伝わらなかった。

 天文博士・陰陽道とは

天文博士

律令官僚体制の中にはいくつか方技(今で言う技術職)がありました。これらの方技は今で言う一般行政職よりも低く位置づけられていました。これは、一般行政職が儒学の教養を身につけていて、儒学自体を一段上と考えるところがあったためと思われます。ただ、中国と比べると日本では一般職と方技との格差は比較的小さいものでした。そういった方技の中で最も陰陽・天文は最も高く位置づけられていました。

のちに土御門家が代々務めることになった陰陽頭は従五位下となっています。五位以上は殿上人で貴族であり、六位以下とは大きな差がありました。ちなみに天文博士は正七位下です。陰陽師、暦博士はもう一つ下で、漏刻博士がさらにもう一つ下、呪禁師がさらにもう一つ下となっていました。(官位相当表より)

天文・陰陽は国の政策決定に直接関与する場合があったので、他の方技よりも高く位置づけられていたと考えられます。

ちなみに晴明が後になったということになっている播磨守は大国の守なので、従五位上に相当します。ただし、国司補任というもので記録を調べたところでは、晴明が播磨守になったという記述は見つかりませんでした。これも、伝説かと思われます。改めて調べてみると、歴史的事実のみを書いていると思われるものには播磨守になったということは見つけることができませんでした。播磨は伝説上でのライバル蘆谷道満との関係もありますので、官位相当表上での意味ではなく伝説の中での播磨守の意味を考えてみる必要があるでしょう。

石田が思いつく播磨の意味としては、渡来系の人々がけっこう入ってきた場所であったということがあります。これはかなり昔からそうで、たとえば日本書紀の伊和大神と天日槍の話などは、渡来系の人々がやってきたときのことが物語になったと考える方もおられるようです。諏訪氏の前掲書によれば、晴明系の陰陽道と渡来系の人たちが担っていた民間系の陰陽道には関係があったようですので、こういった関係から播磨守であったということが必要だったのかもしれません。

もう一つちなみに、今谷明氏「武家と天皇」(岩波新書新赤)によれば、江戸時代の秀忠の時代に後水尾天皇が急に譲位して明正天皇(秀忠の孫)が即位したときに、事前に知っていたうちの一人として、当時の土御門家(晴明の子孫)の人物をあげています。

天文博士の仕事は、天文生を教えることと、天変がないかどうか観測して、もし以上があれば記録して密封して奏聞することでした。

正史があったころは、この密奏が記録されていました。正史がなくなってからは、個人の日記や記録のみに残っています。日本の正史は日本書紀など6つあって、六国史(りっこくし)と呼ばれてます。

六国史:日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録。日本三代実録が858年〜887年まで。従って、日本の正史には安倍晴明の事績は含まれていません。

結局のところ昔は天文現象のうち一部は規則的に起こることがわかって、それらは基本的に暦になったわけです。しかし、規則を見つけることができなかったものは基本的に天変と考えられ、それは最高神としての天の何らかの意思の反映であると考えられました。これは、すべての天文現象を予測しきれなかった昔の人が、特に太陽について、ふだんと違うことがあった場合の幅広い影響を考えると、空を見上げて光っているものすべてについて、同じようになんらかの影響があると考えたのは無理もなかったのでしょう。

(この項全体に、明記していない部分は中山氏前掲書の記述に諏訪氏前掲書から適宜補足したもの。)

陰陽道

中国の陰陽五行思想を取り入れた呪術の体系。元々陰陽と五行は別だが、紀元前三世紀の戦国時代の末以後、一つに融合して陰陽五行思想となった。陰陽は陰と陽という二つの気の活動によって万物が生成流転すると説く思想。易経に取り入れられた。五行は木火土金水の五つの基本的なものですべてのものを考えるというもの。

五行相生: 木は火を生ず。火は土を生ず。土は金を生ず。金は水を生ず。水は木を生ず。

五行相勝: 木は土に克つ。金は木に克つ。火は金に克つ。水は火に克つ。火は木に克つ。

左図黒の矢印が五行相生の順。赤の矢印が五行相勝の順。

吉野裕子氏(みんぱくいんたびゅう、月刊みんぱく、2000年5月号)によれば、正史の記録では陰陽五行思想は欽明天皇の553年頃に天文学に基づく易五行が朝鮮半島経由で入ってきたそうです。その後、推古朝あたりで全面的に受け入れ、天武・持統朝で花開いた。本来は天地の法則であらゆる生き物などすべてのことを統一的に理解する理論の枠組み。当時の人にとっては最先端の科学で、宇宙の原理だったのです。このため、占い以外に、お祭り・仏教・道教・農業・薬学・文学・医学など何でも陰陽五行思想に乗ります。明治維新の時に迷信としてまとめて一刀両断にされました。しかし、日本のさまざまな習俗や行事の根底には、この陰陽五行思想が元になっているものが多く、これはこれでなかなか興味深いものです。

たとえば、五行では正月は木の気が伸ていく時期です。草木にどんどん育って欲しいのです。このために木を抑制してしまう金(五行相勝の金は木に克つより)を抑えて、木気が伸びるのを促す儀式をします。十二支では申・酉・戌が金気に属しています。中国では犬を犠牲に捧げる行事をします。日本では鳥の羽根をはねつきでたたいて追い払っています。

この陰陽五行説にさまざまな宗教・呪法などが重なった形で日本に伝わりました。

  • 方術。道教:道教関係は次回西遊記の巻でもっと登場の予定。
  • 風水説。
  • 密教:秘教化した仏教の一つ。呪文を唱えて祈祷を行ったりする。空海・最澄によって中国から将来。晴明と並んで祈祷を行ったような記録もある。
  • 宿曜:古代の天文学。星占いも含む。宿曜師というのもいた。
  • 呪禁(じゅごん):呪術によって病気を直したり、悪霊や災難を除く。呪禁博士などという職もあったが、陰陽師に吸収されて姿を消した。

陰陽師とはこの陰陽道に基づく呪法を行った呪術者で、元々は国家にいただけでしたが、後に民間にも広まっていきました。

律令の規定による公務員としての陰陽寮の構成は、陰陽部門では占いのみをする陰陽師と、生徒に教える陰陽博士が分離しており、暦・天文は博士は仕事もしながら生徒に教えていました。この規定での陰陽師は狭い意味の陰陽師で占いのみを行っていました。広い意味での陰陽師は、天文・暦を加えた陰陽道全体に基づくさまざまなことを行った人すべてを指しています。

吉野裕子氏によれば陰陽道は安倍晴明が体系化したとされていますが、それは実は特殊化・秘技秘術化したことでもあって、一般人にはわからなくしたことによってビジネスとして成立したということがあるようです。

陰陽師はさまざまな祭りを行っていますが、これらの祭りには以下のように道教の影響で行ったと見られる星に関係した祭りがあります。道教には多数の神がいて、その中には星の神もたくさんいるのです。

  • 玄宮北極祭:北極星
  • 属星祭:北斗七星
  • 本命祭:密教の本命星祭か
  • 太陽祭:太陽
  • 太陰祭:月
  • けい惑星祭:火星
  • 太白星祭:金星
  • 歳星祭:木星
  • 水曜祭:水星
  • 老人星祭:カノープス
  • 泰山府君祭:輔星の精。北斗七星のアルコル。
  • 七十二星祭

吉田光邦氏「星の宗教」(人間と自然シリーズIII、淡交社、1970年)より。

泰山府君祭の泰山は中国の山東省にある山で、中国五獄のひとつ。古代から神聖な山とされてきた。人間の生死を司るとされ、病気のときの祈祷などで晴明も何度か行ったことが記録されている。のちのエンマ様の元になったらしいが、エンマ様が広まるにつれて、泰山府君祭の方は行われなくなっていった。

京都の晴明の館があったとされている場所に今は晴明神社があり、ご神灯などに星型の模様があります。土御門神道の神府や、海女の手ぬぐいやヘラの柄にも同じような星形があります。海女の手ぬぐいなどには、星形と並んで縦横に線が格子縞のようになっているものも描かれています。星形の方はセーマン、格子縞のようなものはドーマンと呼ばれています。ドーマンは「臨兵闘者皆陣烈在前」という九字切りと同じ意味です。元々は山に入るときに邪気を避けるための呪文だったようで、中国の「抱朴子」という書物に出てきます。文章としての意味は「敵の刃物にひるまず戦う勇士たちが前列に陣取っている」。簡単にはそこに進めないぞ、と脅しているわけです。これで、疫病などをさえぎろうとしました。小和田哲男氏「呪術と占星の戦国史」(新潮選書、1998年)より。

セーマンの方は、晴明星の名前でも知られています。あるいは五芒星、ペンタゴンなどともいいます。一筆書きでいつまでもきりがなくどこにも切れ目がないので、悪魔の入り込む余地もないということで、生命が無事である祈りを意味したようです。古代ギリシャから中国へやってきて道教と結び付き、武の印などに。魔物を封じ込めるという意味とも考えられたらしい。中西進氏「古代日本人の宇宙観」(1994年NHK人間大学テキスト、なお最近出版された中西進氏「古代日本人・心の宇宙」(NHKライブラリー)に上記の内容が含まれている)より。

このような文様にはさまざまな力があると考えられていました。渦巻模様などもさまざまなところで見つかる文様の一つです。中国の言葉の「天文」も、天の織りなす綾・文・彩とのことからと思われます。鶴岡真弓氏「装飾美術・奇想のヨーロッパ」(1998年NHK人間大学テキスト)。

他にも「蘇民将来の子孫なり」(祇園祭との関係あり。牛頭天王説話。疫病神。これについてはたとえば脇田晴子氏「中世京都と祇園祭」(中公新書)など)や、「急々如律令」(急いで律令の如く行えという意味で中国の漢代の公文書の末尾に決まり文句のように入れられていたのが、呪符に取り入れられて呪(まじな)いの際の常套句になった)といったものが、呪文として使われています。これらはいずれも、晴明神社のお札にも書かれているようです。

石田としては、ドーマンの音が晴明のライバルの道満と似ているのが気になっています。あるいは、呪いをするときにドーマンを使っていた従来の陰陽師を象徴する架空のキャラクターとして作られたのではないかなどと、個人的には考えているのですが、専門外の分野のことではありますし証拠のようなものは今のところみたことはありません。ただ、晴明の説話が、晴明の後を継いだ陰陽師たちによって、自分たちが行っている呪いの効果を宣伝するような面がありますので、このような形で自分たちの方が効き目があると宣伝したというのは、十分に有り得ることではないかと考えています。

 伝説の中の安倍晴明

説話集より

諏訪氏前掲書が引用している説話が掲載されていた物語集などを調べてみると以下のようになっています。

今昔物語: 12世紀前半に集成した説話集。大鏡と同時期か少しあと。

宇治拾遺物語: 鎌倉中期成立の説話集。1192年頼朝将軍に。1333年鎌倉幕府滅亡。だから、鎌倉中期というと13世紀中頃か。

古事談: 13世紀初頭に成立した説話集。

古今著聞集: 1254年橘成季の撰。今昔物語集につぐ説話集の大作。

発心集: 13世紀初頭、鴨長明編の仏教説話集の代表作。

私聚百因縁集: 鎌倉時代の仏教説話集。1257年跋。

北条九代記: 鎌倉年代記の別本。鎌倉幕府滅亡のようすも記述されており、当然最終的な成立は鎌倉時代が終わってから。

いずれも、晴明没後100年以上たってから成立しています。これらは説話集ですのでを歴史の史料と考える人はいないと思われますが、いちおう念のため。

話の内容としては、仏教などの霊験譚などにあるパターン。つまり、陰陽道のおかげで助かったといった話になっています。つまり、今で言うコマーシャルというとわかりやすいでしょうか。たとえば、晴明が高僧の命を救った話があり、これは陰陽道の仏教に対する優位をコマーシャルしていると考えられます。逆に、陰陽道ではたいした効果がなかったところが、仏教の阿弥陀如来などに助けてもらうという話もあり、これは仏教側が晴明を引き合いに出してコマーシャルしたもののようです。他に修験道の聖地熊野の那智山にこもって修行をしたおかげで、自分や他人の前世が見えるようになったとされていて、修験・山伏関係者が関わっているらしいことがわかります。有名なライバルの蘆谷道満との話は、つまり民間の陰陽師との術比べに勝利したお話で、これもコマーシャルと考えられます。

また、目には見えないものを見る、前世を見る、目に見えないものを使って何かをさせる、隠れているもの(埋まっているもの)を当てる、人の寿命を伸ばすといったエピソードは、中国の神仙譚にあります。ただし、そのまま同じような話があるわけではありません。

ところで、これらの説話の舞台になっているのは京都およびその周辺です。しかし、晴明ゆかりとされる神社、塚、井戸などは日本中あちこちにあります。これは晴明伝説を使ってコマーシャルをしながら、日本のあちこちを訪れていた陰陽師(あるいは呪術師)たちがいたことを示していると考えられます。そして、後に訪れた陰陽師がやったことが、晴明がやったこととなってゆかりの地が増えたりしていると考えられます。このようなことは、弘法大師で同様のことがあることがわかっています。  

民間の伝説

元々陰陽道が伝えられたときには、他の中国の技術・文物と同様に渡来人によって伝えられました。つまり、渡来系の陰陽師がいたわけです。その後、日本的に変えて受け入れられていくうちに、賀茂・安倍両家の世襲職となり、渡来系の陰陽師は民間に埋もれていきました。そういった渡来系の陰陽師たちの中に晴明のライバルである道摩、あるいは道満という名前で登場するものも属するのでしょう。こういった人たちは日本の陰陽道とは異る陰陽術を伝えていた可能性もあります。あるいは、こちらに伝えられていたかと考えられる別種の伝説があります。すなわち、

父は阿倍保名(やすな)。妻の葛葉姫は体が弱く養生に里に帰っていたが、全快を信太明神に祈ったところ、翌日妻が元気に戻ってきて、やがて男の子も生まれた、しばらくしたら正体(狐)を暗示して去り、ほんとうの妻も戻ってきた。この男の子が非凡な才能を発揮し、後の晴明となった。

これは異類婚姻譚で、しかも異常出生譚にもなっています。さらに、信太明神の霊験譚にもなっています。

異類婚姻譚: 読んで字のごとく人間以外のものとの婚姻の話。鶴にょうぼ(つるの恩返し)などがそう。この類型の中に、狐女房もあり、一人型と二人型がある。子どもは偉人になったり、一族の始祖になったりする。上記の晴明説話もその類型どおりになっており、晴明などの固有名詞さえなければ、まるっきり昔話の類型の一つ。

異常出生譚: ふつうの人と違う生まれ方をしたために、高い能力を持っている。たとえば桃太郎や一寸法師などもそう。

この系統の説話が出てくるのは説話集に入っている物語と比べて新しいようです。

ちなみに

伝説: 固有名詞的。アーサー王や安倍晴明に関するものはこちら。

昔話: 普通名詞的。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。・・・」が典型的。

という区別があります。この二つは口承文芸の2つの物語形式で、境界近くはあいまいになりますが、典型的なものははっきりと別のものです。というわけで、伝説も広い意味での文学の一つと考えても良いわけです。

さて、「ほき抄」(『ほ』も『き』もパソコンには漢字が入っていないようです。『ほ』は竹冠りに浦のつくりと皿を縦に並べた字。『き』は竹冠に根のつくりと皿を縦に並べた字です。)という書物があります。これは「三国相伝陰陽かん轄ほき内伝金烏玉兎集」(以後金烏玉兎集。『かん』は車へんに官。『かん轄』全体としては管轄と同じ意味。)という本の注釈書で、この本の冒頭第一章に由来が書かれていて、それには

  • 中国で伯道上人が天竺で文殊からこの書をたまわって帰国。
  • 元正天皇のころ、遣唐使安部仲丸が貢物が少ないことを梁の武帝に責められて殺される。
  • 次の遣唐使の吉備真備は同じ武帝からいろいろと試された(できなかったことを口実にして殺すために)が、赤鬼となった仲丸や長谷寺観音の助力で乗り切り、多くの宝物と共にこの書物も持ち帰る。
  • 仲丸に命を助けられた恩返しに、子孫の童子を探してこの書物を譲る。
  • この童子は不思議な力を発揮し、天皇の病を直して清明(伝説中ではこちらの字を使っている)の名をたまわる。
  • 母は実は狐という説話。
  • 清明と道満の対決。長持ちの中のみかんを道満はみかんと言い、清明はネズミに祈り変えて勝利。弟子とする。
  • 清明は帝の病を直し、その功績で唐に派遣。伯道上人を訪ねて修行。その間に清明の妻と密通していた道満がこの書を盗み見て清明に勝ち、賭けに従って殺害。
  • 清明の死をさとった伯道が日本にやってきて、清明を蘇生させ、道満の首を切った。清明はこの書を新しく作り直し、後世に伝えた。

本文のはじめに「天文司郎安倍博士吉備後胤清明撰」と記されていますが、もちろん後代の作で晴明に仮託されているだけです。作者と成立年代についてはいろいろな説が提出されていて未確定だそうですが、金烏玉兎集の方は室町時代の初めには成立しており、注記と由来は室町時代末の別人が加えたという説が有力なようです。また金烏玉兎集の方の作者としては、晴明の子孫の陰陽師たちや真言密教系統の仏教僧など複数が関与していたという説が有力なようです。

ずいぶん長いタイトルですが、「天地のうちにひそかに伝えられた三国伝来の天文の書」、あるいは「容器のうちにひそかに秘めて伝えられた三国伝来の天文の書」といった意味だそうです。中世・近世の陰陽師たちから、陰陽道の聖典として珍重された本です。

清明が登場しない前半部分は説話『吉備大臣物語』、そしてそれを絵巻にした『吉備大臣入唐絵巻』と同様の内容となっています。また、この部分は典型的な異郷訪問譚になっています。これらの絵巻や物語の分析はたとえば黒田日出雄氏「謎解き日本史・絵画史料を読む」(1999年NHK人間大学テキスト)に出ています。

吉備大臣入唐絵巻:12世紀後半成立。なお、吉備真備のこのような伝説は、上記の物語と絵巻の他に「江談抄」(大江匡房の談話の筆録。平安後期の説話文学集。吉備大臣の話は、母方の祖父よりの口伝として語ったもので巻三に集録されている。このストーリーの記録としては最も古い。)や、「扶桑略記」(平安後期の歴史書。このうちの天平七年(735)4月26日の条に、このストーリーを短くしたようなものが出ている。)といった書物にも出ているそうです。

異郷(あるいは異界)訪問譚:ふだん生活しているような場所と違う場所を訪れる物語。浦島太郎など。桃太郎も鬼退治のところは異郷訪問譚。訪れた先には迫害者がおり試練を与え、援助者によって危機を打開し、危機を克服できれば無事帰還し、訪問先の宝物を獲得して伝来し、高名を得ることができるといったストーリーが典型的。

さて、その前半部分に登場する人物についての史実は、以下のようになっています。

阿部仲麻呂:奈良時代の遣唐留学生。養老元年(717)吉備真備らと共に唐に渡り、玄宗に仕えたのち、鑑真の来日に尽力し天平勝宝五年(753)共に帰国しようとしたが、海難のため果たせず、唐で72歳で客死。(701〜770)

吉備真備:奈良時代の学者、政治家。養老元年(717)遣唐学生として唐に渡り、天平七年(735)帰国。のち751年遣唐副使として再渡唐し、帰国後太宰大弐、右大臣。儒学、天文、兵学に精通していたと言われる。(695〜775)唐の大桁暦を将来した。ということで、天文・暦との関係もある人物ではある。だが、晴明の頃に使われていたのは宣明暦で、以後長い間改暦がなかった。

ということで、吉備真備は最初は仲麻呂と共に唐に行っているし、二度目に行ったときも仲麻呂は存命中。

金烏玉兎集では遣唐使として行っているはずなのに梁の武帝が登場しているのも奇妙です。普通は梁の武帝というと、三国志の時代のあとの南北朝時代の南朝の一つで502〜535ごろ。仲麻呂と真備が遣唐使として行ったのは、いずれも唐の玄宗皇帝(楊貴妃で有名)の時代。もっとも、江戸時代に刊行された仮名草子「安倍晴明物語」では真備を試すのはちゃんと玄宗になっています。では、元の『吉備大臣物語』などではどのようになっているかというと、黒田氏の前掲テキストを読む限りでは「唐の皇帝」となっているようです。つまり、唐の皇帝→梁の武帝→玄宗と変わっているわけです。最後の変化は、歴史的事実を調べて合わせたことが明らかですので、梁の武帝にしたのは、物語として何らかの必要があったのではないかと、石田は考えています。阿部仲麻呂や吉備真備に試練を与える中国の皇帝として、あるいは試練の内容から考えて、当時の日本の人たちの認識では、「こういったことをする中国の皇帝といえば梁の武帝に決まっている!」などと意識させるものがあったのではないかと思います。あるいは、晴明の伝説と結び付くときに、梁の武帝であることが必要だったのかもしれません。この点に関しては、今のところ検討している本などを見たことはありません。また、専門外ですしこれ以上の考察は、今のところできません。

さて、その江戸時代(寛文2年一六六二年刊行)で作者不明の仮名草子『安倍晴明物語』では、『由来』とは違うところがいくつかあります。すでに書きました梁の武帝を玄宗にしたことの他にも、金烏玉兎集は伯道上人自身が書いたことになっています。かえっておかしくなったところもありますが、全体としては、不備(前後で合わないところ、矛盾など)を正して整理した点が多いようです。また、当時は知識人にしか入手できなかった今昔物語などに入っていた説話を補充したりして整理しているそうです。このため作者の有力説として浅井了意の名前が上がっているそうです。そして、この草子はその後の小説、歌舞伎、浄瑠璃などの晴明物に大きな影響を与えました。

出生譚に登場する信太明神は朝鮮半島からの渡来人に祭られた神社だったらしい。さらに古代には渡来人は賤民に組み込まれることが多く、実際に信太周辺にも被差別部落の人たちがいた。そして、暦を出していた人がいたこともわかっている。つまり下級陰陽師だった。この人たちが自分達の信仰する信太明神と尊敬する安倍晴明を結び付けた伝説を育てて、流布していったと考えられる。信太明神は稲荷神とみなされて、それで狐女房が選ばれた。稲荷も渡来人の秦氏の氏神だった。また、真言系密教や熊野信仰といった陰陽道と関係の深い宗教等とも結合していた。(諏訪氏の見解)

(この項全体に明記がなければ諏訪氏前掲書、および、説話に関する一般的知識(以前に本で読んでいたもの、特定できるほど覚えていない)による。)

 現在の晴明ブームについて

夢枕獏氏の小説「陰陽師」(文芸春秋社、その後文春文庫。シリーズとして文庫では3冊出版されている)、そしてその岡野玲子氏によるマンガ化がブームのきっかけとされています。この小説に関しては、映画化(予定)、ドラマ化もあります。実はまだマンガの方はほとんど読んでいませんので、以下に取り上げるのは小説についてのものです。

このシリーズで読者に受けているところとは関係ないことは承知の上ですが、いちおうお約束ということで、まずは小説の記述について天文的な面で正しいかどうかチェックしてみました。具体的には月に関するものをチェックしました。

  • 第一話:判定できるだけの記述なし。
  • 第二話「梔子の女」:じきに夜半。満月。西に半分近く傾いた満月。×満月であれば真夜中はほぼ南中のはず。
  • 第三話「黒川主」:上弦。中天から西へ傾いている。太陰暦で7月3日。×太陰暦で3日ならば三日月。
  • 第四話「蟇」:太陰暦の9月7日。上弦の月。○
  • 第五話「鬼のみちゆき」:十四夜の月。神無月の半ばに近い頃。○

全部の話で完全に調べたわけではありませんが、まあこういったものとしては合っている方ではないでしょうか。(あるいは指摘があって、途中から気をつけはじめたのかとも思います。)

ところで、この小説で晴明とコンビとなっている源博雅ですが、上記の小説の第一話で今昔物語からとして蝉丸から琵琶の秘曲を伝授されたことになっています。田中貴子氏「日本古典への招待」(ちくま新書090、1996年)によれば、平家物語にも蝉丸から箏の秘曲を伝授されたことが出ているようです。まだ元の本にあたっていませんが、いずれにせよこのエピソードにはなんらかの元になった伝説は存在するようです。さらに、田中氏は博雅は晴明よりも五歳年上の917年生まれで980年没、確実な資料で確認できる晴明が最も活躍した時期は985年(64歳)頃以降とのことで、帝に会うことができるだけの地位に晴明がいて、しかも博雅とコンピを組んで、さらに若いということは、有り得ないと指摘しています。もちろん、もっと若いときに平安京で出会っていて知り合いだったということは、有り得ないことではないでしょうが。

田中氏のもう一つの指摘として内裏と朱雀門に関することがあります。960年に内裏炎上。再建後976年再度炎上。そして、しばらく再建されなかったというのです。つまり、晴明の活躍が記録されている60歳(981年)以降は内裏や朱雀門はなかったのです。なお、この時期は全体に疫病が流行し、お祓いのための御霊会が行われはじめた時期にあたっています。その後、この御霊会が形を変えて、現在の祇園祭りになったといったお話はたとえば脇田氏の前掲書などに出ています。

 平安京の「闇」−まとめに代えて

現在の晴明ブームでは、平安京とか晴明というと闇のイメージということになっています。しかしここで示した歴史上の晴明には、それほどの強烈な闇のイメージはないように思えませんか?一方で、伝説上の晴明の方にはある程度闇のイメージがあるかもしれません。これは、歴史上の晴明自身の闇ではなく、陰陽道をコマーシャルした人たちが付与した闇と言えるのではないでしょうか。

ひるがえって考えると、晴明ブームとなっている現代の私たち自身にも、闇という言葉にひかれるような何かを持っているのではないでしょうか。もちろん、闇のイメージをともなった物語を虚構として楽しむことを否定するつもりはありませんが、ブームにまでなるというのは何かが背景にあると思えます。平安京の闇といったことが語られるときに、闇は迷信を信じていた平安時代のもの、あるいは伝説や小説の中のもので、私たち自身とは関係ないと思いがちですが、果たしてほんとうにそうかどうか、一度じっくりと見直してみなければならないのではないかと思います。


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